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東京地方裁判所 昭和46年(刑わ)5639号 判決 1972年8月12日

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は、昭和四六年一月三〇日午後五時ころ、業務として大型貨物自動車を運転し、東京都大田区荻中三丁目二二番先の信号機により交通整理の行なわれている交差点内に第一京浜国道方面から進入し、同交差点大森方面の出口に設けられている横断歩道の直前でいつたん停止してから発進するにあたり、自車の前方左右、特に同横断歩道上の歩行者等の有無および動静を注視し、周囲の安全を確認してから発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同横断歩道上を左から右へ横断通過した歩行者に気をとられ、ほかに横断者はいないものと軽信し、漫然発進し時速約一〇キロメートルで進行した過失により、信号に従い前記横断歩行者に続いて前記横断歩道上を左から右へ横断中の高鳥毅(当八年)運転の子供用自転車に気づかず、同車に自車を衝突させ、よつて、右高鳥に加療約三か月間を要する左肘部挫傷(尺骨粉砕骨折)等の傷害を負わせたものである。

というのである。

二、<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  被告人は、昭和三五年一〇月二二日大型一種免許を、その後大型二種免許をも取得し、反覆継続して自動車を運転している者であるが、昭和四六年一月三〇日午後五時ころ、業務として大型貨物自動車(三菱ふそうT八一〇N車長9.85メートル、車幅巾2.5メートル、車高2.88メートル、キャブオーバー型右ハンドル。目の位置前方から約八〇センチ、地上から約2.15メートル、当時助手席に矢久保助手が乗車)を運転し、通称萩中バス通りと産業道路の交差する東京都大田区萩中三丁目二二番地先の信号機により交通整理の行なわれている蒲田消防署羽田出張所前交差点(別紙現場見取図参照)に、萩中バス通りの第一京浜国道方面から同交差点に向つて走行して来たところ、対面信号が赤色の停止信号を表示しているのを認め、同交差点入口の停止線付近(別紙図面①)に停止した。その際被告人車の車長が長く左折にあたつては大まわりしなければならないので、車体の右側端がセンターラインに接する位まで右に寄つて停止した。ついで対面信号が青色の進めの信号にかわつたので発進し、産業道路の大森方面に向つて左折を始めたところ、同交差点大森方面出口に設けられた横断歩道を左から右に横断しようとして同横断歩道左側端に接する歩道上に横断歩道の方を向いて立つているおばあさんを認め、同女の横断歩行を妨げないようにするため別紙図面②のあたりに一旦停止した。被告人は、左から右への横断歩行者についてはこのおばあさん一人しか目に入らず、また右から左への横断歩行者は一人も認めなかつたので、同女が完全に自車の前を通過したのち再び発進したのであるが、その際同横断歩道の左側端やこれに接する歩道上の歩行者の有無、動静については改めて確認はしなかつた。被告人車が別紙図面②から発進し、約一〇キロメートル毎時の速度で同図面③の地点に達したとき、左後輪付近で接触音を聞いたので同図面④に停止して降車してみたところ、自転車が被告人車の左後部の下になつていた(なお、被告人車にはサイドバンバーが取り付けてある。また事故後警察官が点検したところでは、同車には接触痕もなく異状は認められなかつた。)。当時天候は晴、路面はコンクリート舗装で乾燥し、暗くなりはじめていたが見とおしはよく前照灯をつけるほどではなかつた。

(二)  被害者である高鳥毅は、当時小学校二年生の児童であつたが(当時七時、身長一三六センチ)、同都同区萩中三丁目二六番地の萩中公園内グラウンドで遊んだのち帰宅途中萩中バス通りを子供用自転車(自転車の高さ八一センチ、被害者が自転車に乗つた場合の地上からの高さ一三二センチ)に乗つて第一京浜国道方面より空港方面に向つて左側歩道上を走行し本件交差点にさしかかつたところ、消防署前の対面信号が青色を表示していたことと、前記の本件交差点大森方面出口に設けられた横断歩道の手前で停止している被告人車の前をおばあさんが空港方面に向つて横断歩行中であるのを認めたので、自己が被告人車の前を通過し終るまで被告人車が引き続き停止していてくれるものと考え、自転車に乗つたまま同横断歩道を渡つてしまおうとして引続き自転車を走らせ歩道より同横断歩道におりて横断を始め同横断歩道左側端より約3.1メートル付近(別紙図面×地点付近)において、被告人車左後輪付近に接触・転倒し、そのため公訴事実記載の傷害を負つた。

(三)  ところで、昭和四五年版自動車年鑑(一七巻)によれば本件自動車の車軸間距離は約5.7メートルであり、被告人車の車長が9.85メートルで内輪差の点をもつて左折にあたつては大まわりで左折しなければならないこと等をもあわせ考えると別紙図面②から③に被告人車が達するまではすくなくとも八ないし一〇メートル程度は孤をえがいて走行するものと推認される(もとより左折の場合であるから左側車輪より右側車輪の方がより長く走行するわけであり、また前輪のトレッド=踏面間隔は後輪のトレッドより小さいから、同心円の中心に対して後車輪は必ず前車輪のわだちの内側を通るので、左前輪より左後輪の方が走行距離は短かくなるわけで、それぞれの車輪の走行距離は異なるが、運転席の位置の移動として考えれば本文のとおりの走行距離を推認できよう。)そうして、被告人車が別紙図面②で零から発進して③に達したころには約一〇キロメートル毎時の速度であつたというのであるから、②から③の間に単純平均時速を五キロメートルとすると5.7ないし7秒を要することになり、また加速性能を考慮に入れて②から③の平均時速を七キロメートルとみた場合には4.2ないし5.2秒を要することになる。そして当裁判所の検証の際の計測によれば②から③まで約五秒を要し、被告人において事故後四、五回実験してみたこところでは4.2ないし5秒程度要したというのであつて、これらを総合すると②から③までの所要秒数は四ないし五秒程度とみるのが合理的であると認められる。

他方被害者を自転車で約一〇メートル走らせたところ所要秒数は約四秒(時速九キロメートル、秒速2.5メートル)であつた。したがつて被害者が四ないし五秒間に走れる距離は10ないし12.5メートル程度ということになる。

以上の事実関係を特にくつがえすに足るような証拠はないので、これを前提とすれば、被告人車が別紙図面②地点で一旦停止したのち発進しようとした時点においては、被害者は衝突地点である別紙図面×地点から10ないし12.5メートル程度離れた歩道上の別紙図面の付近にいたことになる(なお、検証の結果によれば②の地点の運転席からまでは左側サイドミラーで見えるがから×地点までは死角に入つて見えない。)

三、(一)  そこで、別紙図面②地点から自動車運転者が発進するに際し、本件交差点の大森方面出口に設けられている横断歩道を歩行しようとする者の有無について確認すべき義務があることは当然であるが、問題はこの場合右の横断歩道およびこれに接する歩道等の外周についてどの範囲まで注視すべきなのか(なお、別紙図面から×までは運転席から死角となるが、この範囲について安全確認義務が認められる以上は助手に指示して安全確認をさせるべきである。)、はたして別紙図面付近までも確認しなければならないのかということであり、そしてまた仮に付近に自転車に乗つて歩道上を走行して来る人を見た場合平均的運転者としては、発進することはさし控え自転車が自車の面前を通過してしまうかあるいは他の方向に進行することが明確となるまで待機すべきなのかということである。

(二)  ところで、自転車は原則として歩道を通つてはならず、車道左端に沿つて通行しなければならないわけで(道路交通法一七条一項、三項、一七条の三)、本件の場合被害者の自転車が車道を走行していたとすれば、被告人車の後行車となるわけで、同法三四条五項の規定により左折車が適式な左折合図をしている場合には、後行車は左折車の左折を妨げてはならないのである。ただ自転車については、道路の横断にあたつては、その安全上むしろ横断歩道を利用し、自転車を押して渡るよう指導されているところであり(交通の方法に関する教則・交通ルールブック警察庁交通局監修一一頁)、本来歩行者の歩行や横断の用に供するため設けられた歩道や横断歩道(同法二条一項二号、四号)を利用する以上歩行者と同様の心得が要求されることは当然のことであり、自転車の運転者が道路を横断するにあたつて横断歩道を利用する場合には、自転車に乗つたまま疾走し、飛び出すような型で横断歩道を通行することは厳にしてはならないというべきであつて、自動車運転者はこのような無暴な横断者はないものと信頼して運転すれば足りる。

(三)  ひるがえつて本件についてみるに、本件横断歩道を横断しようとする者の有無の確認範囲については、一般にこれをある程度の蓋然性をもつて認め得るところの横断歩道の外周について認めるべきであるが(横断にあたつては通常の歩行状態だけではなく小走りで横断する者もなくないのでそれらの点は考慮に入れるにしても)別紙図面点にいる人については、果して同人が本件横断歩道を横断し始めるものか、歩道に沿い大森方面へ左折するか、はたまた川崎方面への横断歩道を渡るつもりでいるのか不明であり、いずれの可能性が高いというようなこともいい得ない状況にあり、付近の範囲までもみて本件交差点を横断しようとしている人がいるかどうか判断すべき義務あるとまでは認め難いところである。とりわけ本件の場合のように横断歩道左側端より七ないし九メートル余りの地点に自転車に乗つたまま走つて本件横断歩道を横断しようとする者があることまで考慮に入れて付近まで確認すべきであるとすることには自動車運転者と他の交通関与者との危険分配の原則の観点からいつても疑問である。また横断歩道に接近した地点にいて当該横断歩道に向つている者についてはその場所的接近性、歩行者の体勢からいつて横断しようとしている蓋然性がある程度の強さをもつて推測できるので、この場合はこれを打消す要素がうかがえるまでは発進をさし控えるのが通常であろうが、本件のように横断歩道からある程度離れた地点にいていまだ予測が十分できかねるような人については、むしろその明確化を待つというより速やかに発進するのが現下の交通事情のもとでは普通ではなかろうかとも考えられ、発進をさし控えなかつたことをもつて可罰的な不注意であるとはいい得ないと考える。

(四)  そしてまた、本件の場合の左折車の運転者が仮に別紙図面に自転車に乗つて走行して来る人を認めたとしても、本件横断歩道を横断しようとすることの明確性およびその切迫性およびその切迫性を認め難い以上は、その人が自車の発進を知り得る状況となつてから避議の措置に出たとしても十分避譲することが可能な時間的距離的余裕のある限り自車の左折を妨げることはないものと信頼して左折を始めることは許されてよいのではないかとも考えられるのである。本件においては被害者が別紙図面地点を通るあたりで被告人車は発進を開始し②点から③点に向け進行を始めたわけであり、同車が車長9.85メートルもの大型車であり、被害者が地点から本件横断歩道にさしかかつた時点においては被告人車の発進を容易に認識し得たのではないかとの合理的な疑いをさしはさみ得る余地があり、被告人車と被害者の衝突地点が被告人車の左後輪付近であることからいつて被害者が歩道上より横断歩道上におりようとするころには被告人車はかなり左折し切つて横断歩道をふさぎつつあつた状況にあり、他方被害者の自転車の速度は時速九キロメートル、秒速2.5メートル程度であつたのであるから、その速度と自転車の制動力、被告人車が発進しようとした地点における被害者の位置、関係距離からみて、被害者が被告人車の発進に対処してこれとの衝突・接触を避けるに十分な余裕があつたのではないかとの強い疑問があり、被告人が被害者の通過を待たないで発進したことをもつて被告人の過失と認め得るまでの心証はとれないのである。そして左折車の運転者としては左折開始後は前方左右を注視することになるので、その後被害者が被告人車の左後輪付近に接触・転倒するまで気付かなかつたとしてもこの点をもつて過失とすることもできないと考えられるのである(本件を大局的に見ると、被害者は前記認定のように停止中の被告人車の前をおばあさんが横断中であるのを認め自分も早く横断してしまおうとするのあまり被告人車の動静についてじゆうぶん注意せずむしろ加速するようにして先を急いだため、予期に反して被告人車が発進してしまい、そのうえ内輪差の関係で被告人車の車体が急に迫つて来たため、ろうはいして適切な衝突回避の措置もとり得ないまま被告人車と接触してしまつたのではないかとの疑をぬぐい去ることができないのである。)

四、結局本件については被告人に本件事故発生について別紙図面の付近を確認しなかつたことをもつて過失とすることには疑問があり、かつまた被告人が横断歩道上およびこれに近接する周辺について確認しなかつた不注意な行為と結果発生との間に刑法上の因果関係を認め難いので、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになり、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。 (朝岡智幸)

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